今 ま で の こ と<その1>
原 告  名 木 田 恵  子
 
一 今回、私はやむを得ず裁判を起こすことになってしまいましたが、今でもどうしてこんなことになったのか信じられず悲しい気持ちでいっぱいです。五十嵐さんとはキャンディ・キャンディという作品を一緒に作ってきた特別の仲間、そして友達だと思ってきました。裁判所に行くたびに、もしかしたら五十嵐さんが来ていないかしら、ちょっとでも話せないかしら、といつも思っています。私は私なりに五十嵐さんのことを思って動いてきたつもりですが、五十嵐さんはだんだん私と距離を置くようになり、それを不思議に思っているうちに今回の事件がおきてしまったのです。
裁判所にご説明しなければならないことは多々ありますが、まずここでは五十嵐さんとの関係がどうしてこうなってきてしまったのか、自ら振り返りながら考えてみたいと思います。プリント倶楽部の件が発覚してからの経過は、弁護士さんが書面に書いてくれたとおりです(こうなったあとも弁護士さんを通じての度重なる呼びかけに何の返事もなく、一方的に物事を進められたことは、本当に残念です)ので、それ以前の事情から説明します。
 
二 キャンディ・キャンディの制作
一九歳の頃、当時ジュニア小説を書いていた私は、講談社の東浦さんにすすめられてマンガの原作を書きはじめました。その頃、「なかよし」の編集長だった東浦さん(現在は専務)は、いろいろな漫画家と組ませてくれましたが、その中でも五十嵐さんとは最高のコンビだったと思っています。
「キャンディ・キャンディ」連載中もその後も、五十嵐さんと諍った記憶はありませんでした。五十嵐さんは連載中も「ストーリーを作っているのは原作者だから」と担当編集者より私を信頼してくれていたと思っています。五十嵐さんは女性漫画家の中では珍しいほど大らかな人で、だからこそ私はのびのびと原作を書けたのだ、とずっと感謝していました。その後も、私自身は五十嵐さんに対して深い同志的友情を抱き続けてきたことは本当です。
 
三 講談社との契約の縮小と「日本アニメ」の件
1 「キャンディ・キャンディ」については、連載誌の出版社の講談社がコミックスの発行から各種商品への二次使用について一手に管理していました。「キャンディ・キャンディ」はテレビアニメにもなって大好評を博しましたが、そのアニメも講談社を介して東映動画が作成したものです。
その後、出版やその他のものもずっと講談社が管理していました。しかし、五十嵐さんは何年か前から「講談社はキャンディは欲しいが、いがらしは要らないのよ」と、不満を漏らすようになりました。
その不満を聞くうちに、私も五十嵐さんの心情が理解できるようになりました。
2 そのような折り、五十嵐さんから「日本アニメ」が「キャンディ」のリメイクを希望しているという話を聞きました。五十嵐さんは日本アニメの社長が確約しているのでリメイクは一〇〇パーセント大丈夫と断言していました。
東映動画のアニメの「キャンデイ」は、ストーリーを引き延ばしたりしていて、原作と違っているところも多く、絵も五十嵐さんのかわいい原画ではありません。この間アニメーションの技術も随分進んだので、私としてもオリジナルのキャンディのアニメを見てみたい気持ちは十分ありました。
しかし、日本アニメでリメイクするには東映動画との契約を切らねばならず、そうすることは講談社との二次使用契約も切ることになるのです。
東映動画がリメイクしてくれればいちばんよいと思いましたが、東映側として現在のところ企画はない、しかし、希望はあるので契約は継続してほしいということでした。どうしようかと考えあぐねているうちに契約更新が巡って来ました。
3 その契約更新の調印の会食が行われる日の当日、家を出る前に五十嵐さんから電話があり「私は今日はハンコを押さない。お願いだから押さないでほしい。」と頼まれました。私は一応「分かった…」と返事をしましたが、ギリギリのこの時になって拒否するのは講談社に対して卑怯なことになる、と思って浮かない気持ちでした。
青山の和風レストランには東浦さんをはじめ講談社の方々と、五十嵐さん父娘と私がそろいましたが、契約の話になると、五十嵐さんはやはり調印をしないといいました。不穏なムードが流れました。「ラトちゃん(私のことです)にもハンコをおさないように頼んだ」という五十嵐さんに、私も同調するしかありませんでした。
東浦さんの怒りはよく分かりましたが、私はこのとき講談社より五十嵐さんを選んだのです。五十嵐さんを信じていた私は、講談社には申し訳ないと思いつつ、元は切り離せないからしょうがないんだ、と納得していました。
4 しかしその後、アニメのリメイクの話は日本アニメの社長と五十嵐さんだけで進めているようで、私は不安になってきました。そこで五十嵐さんに「なぜ社長は私と会わないのかしら」と尋ねると、「ラトちゃんも会いたい?」と言われてびっくりしました。仕事としてなら、原作者の私とも話すのが当然のはずなのに…。やっと銀座の日本アニメの本社で本橋社長と会うことになりましたが、このときはすぐにお寿司屋さんでの会食になってしまい、昼間からアルコールが出て大した話になりませんでした。その後、現場の人と会って欲しいと言われて日本アニメのスタジオに私一人で出かけたこともあります。しかし、現場のスタッフからは「キャンディ・キャンディ」のアニメ化に対し熱意は感じられず、本当にやるつもりなのだろうかと疑問を覚えました。
5 七月に入って、本橋社長と二度目の会合を持ちましたが、このときも昼からお寿司屋さんで飲み会になってしまいました。本橋社長は、「スポンサーをさがすのが難しい。東映さんとの仁義がある。」などと言い、突然「しかし、続編ならOKだ。続編を是非書くべきだ。」と言い出しました。私は驚いて、とんでもない、リメイクだから賛成したのであり、続編を書く気はない、と反対しました。五十嵐さんはずっと黙っていました。
そのときから私は、五十嵐さんと本橋社長の間で事前に続編の話が決まっていたのだろうかと不信感が芽生えることになったのです。
5 その後あまりに何も連絡がないため、本橋社長の秘書的立場であった高崎さんに連絡を取りましたが、具体的な説明はなにもなく、その後このリメイクの話がどうなったのかは不明なままです。
 
四 香港の件
1 五十嵐さんがしばしば香港に行っていることは話に聞いて私も聞いていました。既に五十嵐さんの元アシスタントで親友の鈴鹿れに(本名村中志津枝)さんが、どういうきっかけで勤めることになったのか不明ですが、偶然玉皇朝出版に勤め始めていたのです。
2 五十嵐さんからその玉皇朝で「キャンディ」などの「イラスト集」が出るので許可して欲しいという話があり、私はもちろん許可しました。そのときはもともと講談社で出ていた「キャンディ」のイラスト集にのっていた私の詩を中国語に訳して載せたいという話もあり、これも承諾しました。村中さんの依頼に応じてその本のあとがきも書いて送りました。
3 その間、七月末、香港で行われるブックフェアーのサイン会に「ラトちゃんも行こうよ」と五十嵐さんから誘われたのです。私は、これが仕事であれば玉皇朝出版の方から正式な依頼か接待があるはずなのに何か変だなと感じていましたが、私としては七月の末から長い海外旅行を控えていたこと、娘が学校行事で初めて泊まりがけで出かける日に重なっていたので、香港行きは断ろうと思っていました。が、いろいろ気になる点(契約書やいったい何部刷るのか等)が多く、夫に相談したところ、夫も同じ意見で、香港に行ってキチンと出版社の動きを確かめてきた方がいいと勧めてくれ、私は決心したのです。
4 現地ではブックフェアーのサイン会に参加しましたが、イラスト集に関する契約の話は玉皇朝出版の方から一向にありませんでした。
 また、ティールームでお茶を飲んでいたとき五十嵐さんが私の見たことのないキャンディの絵のテレホンカードを持っているのを見つけ、もらい受けましたが心に妙なざらつきが残りました。
いつまでたっても玉皇朝側から契約の話が出ないので、帰国が迫った日、しびれを切らして、私は村中さんにホテルの廊下で聞いてみました。すると、「五十嵐さんと契約はすませてある。その後のことは五十嵐さんと相談して。」と言われたのです。驚いた私は五十嵐さんに「契約書のことだけど」と話を切り出すと、初めて聞く冷たい口調で「私の絵だから」と言われ、私は二の句が継げず呆然としてしまいました。今となってはあのとききびしく私の意見をいうべきだったと後悔しています。
5 五十嵐さんは現在、この香港行きの場で私が玉皇朝に出版を承諾したと言っていますが、疑念ばかりがわいて、とてもそのような承諾をする状況ではありませんでした。
確かに食事の席などで玉皇朝の方たちから、いつか「キャンディ」を出版したいという話はありました。しかし、まだ講談社の国際室が香港版の「キャンディ」を出版しており、私は「それはその時にね。」といったことを覚えています。だいたい、キャンディ関係の出版物を出すのに一方しか契約しないことなどこれまでなかったのです。必ず二人の契約書を必要としてきました。
6 その後、私が原作・五十嵐さんが漫画を描いた「ティム・ティム・サーカス」という作品を玉皇朝から出版するに当たって、五十嵐さんは私に委任状の要求がありました。もう一方的な契約書のもとに本が出ることはしたくなくて、私が渋っていると、五十嵐さんは怒りをあらわにしていました。
私はここでケンカになるのもいやだと思い、しかたなく委任状は渡しましたが、その後そのマンガの本が出版されたかどうかの連絡もなく、本も送ってきません。五十嵐さんの会社、アイプロダクションからの送金に「ティム・ティム・サーカス」の記載があったので出版がされたことをやっと知った有様でした。
「ティム・ティム・サーカス」の本については、この騒動が起こってから村中さんに再三催促しやっと本が送られてきましたが、一巻目の奥付には「原作者水木杏子」の記載が抜け落ちていました。村中さんがなかなか本を送ってこなかったのはこのためもあったのかと思いますが、なぜ抜けていて、それについて放置していたのか、玉皇朝―村中さんについても疑問が残っています。
 
五 平成七年の五十嵐さんとの契約書
甲第一号証で提出した五十嵐さんとの契約書を作ることになったのは、次のような経緯によります。
この契約書で立会人になっているマンガジャパン(漫画家の団体)の顧問弁護士の富岡英次弁護士は、日本アニメの話が持ち上がったときに、東映動画との契約書を検討する必要が生じて、五十嵐さんの紹介で会いました。
香港から帰った後、私は富岡弁護士に玉皇朝とのイラスト集の、一方しかしない契約について相談したかったのですが、富岡弁護士はその点はあいまいに答えられないまま、今後五十嵐さんと私の双方のために契約書を作ってはどうかと提案してきました。私としては法律の専門家としてきちんとした意見を言って欲しかったので、不満は残りましたが、富岡弁護士が作成した契約書の内容に一部をのぞいては不満はなく、調印することにしました。
一部、というのは、「絵のみ」「文字又は音声のみ」の場合に八対二という配分の記載についてあいまいな点が残るでは、と思ったのです。この文章についてもっと検討した方がよいといいましたが、うやむやなままになってしまいました。契約書で予定されている管理業者には、もう一人の立会人である窪田弁護士が推されました。
しかしその後、窪田弁護士からの要求が過大であること、五十嵐さんが「管理ではなく営業までやってくれる人が欲しい」と希望したことから、窪田弁護士の管理はお断りし、管理業者がいないままになっています。
私は、ちゃんとした管理の態勢を作る必要があることと、あいまいな八対二の問題も話しあいたい、そして今まで遠慮して語らなかった私自身の疑問(日本アニメ・玉皇朝)も正直にぶつけたいと思っていたので、五十嵐さんに度々連絡しましたが、「今は忙しいから…」ということでなかなか機会がなく、そうこうしているうちに今度の事件が発覚したのです。
 
六 中公文庫について
「キャンディ・キャンディ」の文庫版については、現在中央公論社から出版されていますが、これについても若干のいきさつがあります。
中央公論の話は五十嵐さんから来たものですが、このとき講談社からも文庫化の話が持ち上がっていて、私は講談社で出版すべきだと思い大変悩みました。しかし、五十嵐さんから、中公で受ければ五十嵐さんの別のマンガも三作文庫になる計画がある、(講談社では出版されない)是非とも中公で受けて欲しいと強くたのまれ、それならば、と結局中央公論社で受けることにしたのです。
このときは五十嵐さんから大変感謝され、五十嵐さんの方から「印税は五対五ね」(いつもは六対四です)と言ってくれました。このときにはまだ五十嵐さんとの心のつながりを感じていました。
 
七 キャンディコーポレーションについて
この会社については、以前、「マネージャーが香港に別会社を作る」と五十嵐さんからチラリと聞いてはいました。しかし、会社の名前を知ったのはプリクラ事件が発覚した後です。どういういきさつで作り、何をしている会社かまるで知りません。
しかし、その後、ある出版社の方からも「キャンディコーポレーションとは何ですか。『キャンディで極東を制覇する』といってらっしゃいましたが」と言われ、びっくりし、今でも疑念は残っています。
キャンディコーポレーションと香港の玉皇朝との契約、そしてバンプレストの吉田氏にも「水木はキャンディコーポレーションの一員で全ては承知の上」と言っていたというのですから。
私はこの会社については、はっきりして欲しいと思っています。
 
七 まとめ
こうして、私と五十嵐さんの間は少しずつへだたっていったようです。
けれど、今回のプリクラ事件が発覚するまで、私は五十嵐さんが勝手な動きをするはずがないと思っていました。しかし、プリクラ事件の内容を知り、あまりにもショックが大きく直接五十嵐さんと話すのは避けたいと弁護士さんを頼んでいるうちに事件が次から次へとひろがっていったのです。
五十嵐さんは、私がキャンディの企画をつぶしてきた、といっているようですが、私自身、自分の意見はいっていましたが、つぶしてきたという意識がありません。
もし事実としてあるなら逆にいってほしいくらいです。
私はいつもキャンディという作品はどこからもわけられない二人の作品と認識してきました。
ですから、意見がくいちがう場合は、話しあうことが大切、と何度も五十嵐さんにいってきたはずです。
その話しあいも何もなかったのですから、私としてはただ驚き途方にくれるばかりです。
このままでいくと、キャンディという私たちの大切な作品に傷がつくことが悲しい。しかし、傷つくことをおそれて事実をうやむやにするつもりはありません。
五十嵐さんもキャンディを愛しているのなら、再三要求している私の質問にきちんと答えてほしいと思います。
そして、契約書通りに事をすすめていただきたい。私たちの争いはほんとうに無益な悲しい争いと思いませんか?
 
平成一〇年四月一〇日
(氏名)   名 木 田  恵   子 印
 
 
       
       
       
 
 
 
 
 
         陳述書 (その5)
            
                
                          名木田恵子
         
前回提出されたいがらしさんと村中志津枝さんの陳述書を読んで、もう一度お話させていただきたいと思います。
 
アリステア、アーチーなど登場人物の<名前>をだれがつけたのか……
そのことについては一審での陳述書に書いたことがわたしの主張です。
また改めて同じことを言いつのってもせん無いことなので避けますが、ひとこといわせていただくと<原作>の仕事を引き受けたからにはたとえ組む漫画家であろうと<登場人物の名前><レイクウッドなど想像上の場所名>について指示された事はありません。もちろん、希望は聞きます。たとえば、‘キャンディ‘の名前は確かにいがらしさんサイドからのアイディアでしたが、その名前がわたしの書きたい物語の主人公のイメージに合わなければ同意しなかったでしょう。とてもいい名前だったので受け入れたまでです。
内容についても同じで、確かに担当編集者と相談し、また漫画家と会って意見を聞いたりもしますが、<うちあわせ>とは本来そういうものではないでしょうか。担当編集者ならまだしも、漫画家に指示などされたら原作者として仕事にならず、それならば原作をつけずに漫画家ひとりで描けばよいわけです。もしそんなことが相次ぐなら連載中四年の間に<原作者は必要なし>と編集部で判断され私自身も仕事をおりています。
 
また、いがらしさんは打ち合わせのときに描いたラフデッサンをそれが<キャンディ原画>であると主張していらっしゃいますが、その点についても当時の編集長、そして担当編集者にわたしの陳述書といがらしさん、村中さん、三人の陳述書を読んで頂きました。
 
原稿依頼のしかたのついては漫画家と原作者への各々<依頼の仕方>は違いがあってもしかたがないということです。事実、わたしはわたしへの依頼された通りの記憶であり、漫画家への依頼の仕方はわかりません。
しかし少なくとも、わたしは一審の陳述書とおり、連載以前から<名作物の原作>を考えておくように、と「なかよし」の編集長であった東浦彰氏に(現、講談社専務)いわれていたことを、今回同氏より確認をとりました。
東浦氏にとっても<キャンディ>は長年あたためていた企画が成功した思い出深い作品であり、この裁判を通していがらしさんが、さも自分が考えた企画のように主張していることにはっきりと意義を唱えられ、このような事件になったことを悲しんでいらっしゃいました。
また、うちあわせ中の<ラフデッサン>にしても、当時の担当編集者は、「はっきりとは覚えていない。しかし、それを今さら25年もたって<キャンディ原画>と言うなんて…」と不快感をあらわにされています。当時の担当編集者にとっては(こんなことに自分の名前をだしてほしくない。関わりたくもない。)とおっしゃるほどの怒りの気持ちもわかります。
当時の担当編集者にとっては「くだらない」の一言でしょうが、まさにいがらしさんはそのことを賭けて争っているのでしょう。
そして、その「くだらない」とおっしゃるひとことが、<ラフデッサンがキャンディ原画>といういがらしさんの主張へのお答えだとわたしは受け止めています。
 
漫画家と打ち合わせの時いがらしさん以外の漫画家でも<メモ帳>はみんな商売道具として持参していて、打ち合わせに添ってラフデッサンは描きます。(そのことについては前回も書きましたが、小説の挿し絵画家との打ち合わせでも同じです。)連載でも読みきりでも漫画になるのですから、その主な主人公は原作者と協議しておかないと物語はふくらみません。
まして、<キャンディは大型連載企画>でしたから、そういった打ち合わせは大切でした。
いがらしさんが<キャンディ原画>と言い張るラフデッサンを見たときの喫茶店の状況について、先回わたしが提出した陳述記述も間違っていたら指摘して頂こうと思い、提出前かつての担当編集者に読んでいただいたところ、なんのクレームもありませんでした。
しかし、何しろ25年、四分の一世紀前のことなのです。だれも確かなことはいえません。
 
また、<予告>と<本編>の絵ががらりと違うという伊東弁護士の一文は、きちんと編集部に取材の上で書かれたことです。
   しかし、<キャンディ予告>に関しては<コンセプトとおおまかな物語の流れ>は何回も
   打ち合わせを重ねたうえでの<予告>でした。
 
そしてまた、前回頂いた村中志津枝(鈴賀れに)さんの陳述書で、わたしのなかでずっとくすぶっていた疑問がはっきりしました。
村中さんは、なぜご自分の勤め先を伏せていたのか。
 
この事件の発端はプリクラの無断許諾ですが、それに相次いで発覚したのが香港の
玉皇朝出版との無断出版契約です。その担当が「玉皇朝出版の国際版権部」村中志津枝さんでした。村中さんが(偶然ということですが)香港の出版社にお勤めになっていたことに驚きまししたが、当初は村中さんが‘ 鈴賀れに‘時代、わたしの児童小説のイラストを描いてくださった思い出もあって、再会を喜び、気を許していました。
 
この事件のルーツともいえるその<香港、玉皇朝出版>でのいがらしさんのキャンディを含むイラスト集の出版。そのときの対応の失敗がこの事件につながっていると今、省みています。その件については、一審の陳述書に書きましたので、簡単に記すと、村中さんが公平な‘いち編集者‘ではなく、すべていがらしさんに有利に働いた事により、わたしとの契約書も作らず、申し出ても軽くいなされた形になってしまったことです。今になって村中さんは「あの時、強くいってくれれば契約書を作ったのに」
とまるでこちらのミスのようにいわれました。まさにその通りかもしれませんが、村中さんがフェアな対場で仕事をなさるだろうと、信じていました。
村中さんはわたしが<アイプロ(いがらしさんのプロダクション)>に委託した訳ではないことをよく知っていたはずです。その後、玉皇朝出版というより村中さんといがらしさんが話を進めたキャンディの絵葉書、テレフォンカードなどの販売もこの事件後に知りました。今、そのことをもっとはやく知っていれば事件をふせげたのに、と残念です。
この事件が進むに連れ、わたしたちは村中さんへの疑問が膨らみ、<村中さんはいがらしさんの香港マネージャー?>と首をかしげてきましたが、今回の彼女の陳述書で納得しました。
また、わたしと同じ侵害をうけていることが一審後、発覚したいがらしさんの漫画<ジョージィ!の原作者 井沢 満氏>も香港の玉皇朝出版との契約も何も知らず<本>さえ送られていなかった事を付記しておきます。
 
最後に申し上げたいのは<キャンディ>はいがらしさんにとっても、またアシストした村中さんにとっても大切な作品であることはよく理解しています。
しかし、<物語>を作った原作者のわたしにとっても大事な大事な作品なのです。
絵を描くたいへんさはよく理解してきました。また、漫画として世に出ることは漫画家の力に負う所が多い事も良く分かったいたので、いままでは<原作者>は影の存在でもかまわない、とさえ思ってきました。25年間、それでよし、としてきましたが、わたしの作品でもある<キャンディの原作者の立場>を否定されることは、怒りを通り越しただただ深い絶望感を感じています。
 
いがらしさんは一審後「これでは色紙もかけない」と「自由に絵を描く権利」主張していらっしゃいますが判決後8ヶ月間、あちこちで<新作原画の展示会、および色紙の販売>を行っていらっしゃいます。
わたしは<絵>を描いてはいけない、とはいっていません。
原作者に無断で法外な価格を絵につけ販売してほしくないといっているだけです。展示会の販売員によってはその何十万という絵の価格は「原作者に払うため」といっていると聞きます。「作品名」を使って販売するとき、わたしは原作者にも責任は生じると思っています。わたしはわたしの知らない所で、原作者の存在を利用され、わたし自身びっくりするような価格でキャンディの絵の販売はしてほしくありません。
ただ、納得していたいのです。人に聞かれた時、堂々と答えられるように。
 
そして、いがらしさんには共に作品を生み出した原作者たちをきちんと認識し、約束(契約)を守り、礼儀を大切にしてほしいだけです。
それがそんなにむずかしいことなのでしょうか。
わたしが24歳、いがらしさんが23歳でキャンディの連載を始めて正確には26年目にはいります。わたしたちも年を重ねました。
あとわたしたちの時間がどのくらい残されているか,神のみぞ知ることですが、わたしは、このようなことで大切な時間が費やされる事を悲しく思っています。
26年前、よい作品を作りたいと、それぞれの夢を紡いだ作品、多くの人に愛されたキャンディをこれ以上傷つけたくありません…。