<別冊ジュリスト、No157、著作権判例百選>(有斐閣)を読みました。
この事件でおなじみの本橋 光一郎弁護士、伊藤 真弁護士(ダン、サンブライト代理人)そして、弁理士の牛木理一氏らが著作権判例について解説を書いていました。
三人とも<著作権法学会>のメンバーでお仲間でいらっしゃるそうです。
 
わたしはこの事件を<材料>に、それを利用して論文を書きたがる学者たちにはやりきれなさを感じてきました。
今回はそのことについて書きます。
 
まず、牛木理一氏についてはずっと不可解なままでした。(そういった理由によりお名前を出します。)
牛木氏は一審のとき、伊東大祐弁護士、講談社版権サイドと接触してきました。
もともと牛木氏は<漫画のキャラクターは漫画家のもの>という主張だと聞いています。
(つまりキャンディの絵は二次使用(グッズ)に関しては漫画家の専有とする、といった主張でしょうか。しかし、それが通れば、例えば故梶原一騎氏の原作の漫画であっても、グッズ等のマルシー表示からは梶原氏の名前が消えてしまうということになります。)
 
それゆえ、伊東大祐弁護士と講談社サイドも時間を割いて牛木氏と面談、<出版現場での漫画と原作について>くわしく話して下さったそうです。結果、牛木氏は
「キャラクター漫画(例 どらえもん、ひみつのあっこちゃんなど)とストーリー漫画(例、あしたのジョーなど)とは扱いが違うのですね、キャンディはスートリー漫画なのですね。」(聞き書き)と発言。講談社サイドは「やっと、わかってくれたようです。」と話して下さいました。
<机上の学者>に<現場>のことをわからってもらうには大変、というのが感想でした。
 
しかし、出来上がった牛木氏の論文はいがらしサイドに有利に働くものでした。(上告理由書にもいがらしサイドは牛木氏の論文を引用しています。)わたしたちは牛木氏との面談とその論文との落差に度肝をぬかれ、深い虚脱感に襲われました。
「なんのために説明したのか?」「わかったのは”ふり”だけだったのか?」
また、その後「本橋弁護士たちと親しい方だとわかっていたら、あんなに手の内をさらけだすような話はしなかったのに…」という後悔が残りました。
 
伊藤 眞弁護士にしても、ダン、タニイを訴えるまでは「露天で売っても(グッズを)いけない」と水木の夫にいっていらしたので、まさか本橋弁護士の主張に乗られるとは思ってもいませんした。後日、くわしく書きますがダンたちとどうしても和解は無理だったのは、伊藤弁護士の主張が大きな原因の一つです。
 
<ジュリストNO157>では福岡大学の講師、堀江亜以子氏が<キャンディ・キャンディ事件>の判決について解説を書いています。
この事件をどういった視点でみられようと、わたしは今まで黙認してきました。
しかし、堀江氏の解説にはこの事件でわたしが一番<大切に思っていたこと>が、<勝手に捻じ曲げられて>いたので、ここでふれておきます。
 
堀江氏の解説には(別冊ジュリスト NO157より)
 
>__本件においてはX(水木)の原作原稿に基づいてYが漫画原稿を作成するという一方的な関係のみならず”そうして出来上がった漫画作品にあわせて””X(水木)が次回原作原稿を作成するという双方向的な関係が存在しているから”(”〜”は水木)その点を重視して本件連載漫画を両者の共同著作物であると把握しうる可能性はある>
 
…とあります。
水木杏子は<漫画を読んでから次回を考え原作を書いていたわけではありません!>
物語は決まっていて、ラストまで書いて渡すことも可能でした。それが<原作>という仕事です。ただ、漫画家がその回のページに物語が収まらない場合、相談にのり次回からのつなぎを考えたというだけです。長い旅にいくときは<2回分>をわたしていました。
当時の担当の陳述書にもありますが、<先に最後までの完結された原稿を渡されているより、読者の反応をみながら月ごとに(水木に)書いてもらった。(大意)>
ということなのです。
 
堀江氏の解説は、そういった事実関係の調査もせず<共同著作物>の方向に静かに引いていきたいという意図さえ感じてしまいます。
 
いがらしサイドがなにより望んでいるのが<共同著作物>という判断なのです。
 
<共同著作物>ならば今進行中の<日本アニメ裁判>にも大きく影響します。
<原著作物>とちがって<共同著作>は<正当な理由がない>と断れないからなのです。
 
学者たちがどのような説を唱えられようとご自由と思います。
しかし、このように<事実関係を調査もせず>に書かれた<解説>などが世間に流布され、また、学生に対して<著作権を学ぶ講義>などにも使われるとしたら(実際、そんなことがありました。)こんなに迷惑なことはありません。
これもまた<名誉を傷つける侵害行為>だとわたしは感じています。
 
全く、法律は理不尽です。
この事件でわたしは自分が<原著作者>であることを主張していたわけではありません。
もともと版元の扱いは<原著作者>だったのです。(この事件で初めて知りました。)
原著作者のみが___<続編、番外編を書くこと>ができます。
漫画家がいくら希望しても<原作者>が書かなければ<続も番外編>も生まれません。
 
そんなことより、わたしはいがらしゆみこさんという漫画家と共に作品を生み出したこと……それを大切にしたかった…。
しかし、この裁判では<法的解釈>に乗った<いがらしサイドのすり替え>と援護射撃するように口を挟む弁護士と親しい学者たちによって、混迷させられ、本来のわたしの気持ちからは事件の本質が遠く離れてしまったことになんともいえないやりきれなさを感じています。
 

 
 

<PART U>

平成14年5月30日に下された業者裁判判決によって、6年にも及ぶこの事件はわたしの中ではピリオドを打ちました。

この事件でははじめて知ったこと、驚愕したことが多々ありましたが、上に書いた<学者>と<司法>が癒着しているのでは……と、気がついたこともそのひとつです。
<学者>は裁判所に出入りし、同じ<学会>で話し合い、そして<弁護士>は<学者>が書いた論文を裁判に有利に利用します。
この事件の最高裁においても<いがらしサイドの書面>では実に半分近くは<学者の論文>の引用でした。
本橋弁護士は、上告の書面に引用したあの大量の論文を短期間にいったいどこで手に入れたのでしょうか。
そうした論文のうち、あきれた例を挙げると、

<(略)判旨の論構成では、漫画ボヴァリー夫人についてもYI(注 いがらし氏のこと)
エマの絵を利用することにフローベルの許諾が必要だということになる。(長塚真琴著(民事判例研究より大意)>…といった形のこじつけには驚かされました。

また、この事件の発端、いがらしさんと水木がかわした<契約書>の<立会人>である
富岡英次弁護士(元マンガジャパン顧問弁護士)も<漫画のコマ絵には原作者の権利は及ばない(大意)>といった論文を書いていたようで引用されていました。
立会人たる弁護士がこのような意見だったのか、と愕然としました。もし、弁護士がこのような見解を原作者に対して持っていたことに早く気付いていれば、充分、注意したと思われるからです。

こういった論文のすべてが、事実調査もないままであり、また、それが大学などの講義に使用され、伝達されていくことを思うと、まさに事件の当事者として戦慄を禁じ得ません。
また、裁判によってはそういった学者諸氏の論文が判決にまでも及ぶこともあるようで、それもまたひとつの裁判の戦法かもしれませんが、たいへん恐ろしいことだと感じました。

また、水木の夫は二度ほどこの事件の<著作権講座(有料)>に参加しました。
たった二回しか出席していないのに、この事件の判決を持ち出し「"原著作者"との判決は強すぎる」と同じ例を引いて言い募る人(たぶん同一人物)が来ていたのには、夫もかなり驚いていました。
その講座の解説者は<学者と弁護士>で、その両者ともこの事件について浅い知識しかなく、そのような人物が講座解説者といういい加減さにも夫は愕然としたようです。
二回目の時は、解説者の女性弁護士の間違った認識に、夫は自分が<当事者の夫>であることを名乗り誤解を解くことに努めました。しかし、手応えのある反応はなかったようです。

今後もこの事件については、さまざまな形で論じられることでしょう。
公のところで発表する以上、事実関係を少しでも調べ責任を持って発言して欲しいものです。
わたしたちは<誤解><虚偽>の一人歩きをひとつひとつ訂正して歩く訳にはいきませんが、チャンスがあれば、この事件がどのように語られていくか、この目で確かめていきたいと思っています。